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犀【7/23】「メジャー化」への言及

得体の知れない(私は知っている)ブログの一節に言及する。

だいたい今20代までくらいの世代には、共通してオタク趣味に関する暗い思い出があるだろう。学校でライトノベルを読む、アニソンを流す、オタク趣味を開陳する、そうした行為に対して冷たい目が向けられたこと、あるいは向けられたのを目にしたことが、一度はあるだろう。それが今や、世界の大祭典でマンガ表現やゲーム音楽が取り上げられている。世界に誇るニッポンのカルチャーというわけだ。オタク趣味は市民権を得た。こんなにうれしいことはない……
なんとなく上記のような言説がTLを駆け抜けていくのを見たが、こういう話を見るたびに不思議に思う。自分の趣味に市民権があるかどうかって、そんなに大事だろうか? 趣味は自分と愛好家の間でしか楽しめないものだし、誰にでも開示する必要は一切ない。人に趣味を言いたいのなら人に言える趣味を作ればいいのだし、他に趣味を持てないほど没頭しているのならそもそも興味を持たない人に趣味を言う必要はない。
趣味に自己の承認を見出している、というのも納得できない気がする。マンガ好きの人からセンスを褒められる、とかならわかるが、マスメディアが「今、マンガ好きが増えています」と喧伝したところで嬉しいもんだろうか。マンガやゲームという括りはアイデンティティとするにはあまりに大雑把すぎる気がする。パイが増えて喜ぶ漫画関係者とかならともかく、一般オタクには関係のない話だろう。
こうまで長々書いたのは、単純にわからないという気持ち以上に、「そんなちょろまかしで手のひら返すなや」という怒りが含まれていたことによるのだが……しかし気にはなる。どうなんですかね。

オタク趣味の市民権

引用冒頭のような暗い過去については覚えがある。細かいエピソードは忘れたが、たしか中学校時代に感じた「どうして野球ばかりやってるアイツはモテるし人気者なのに、遊戯王ばかりやってる俺はモテないどころか女子に嫌われるんだろう?」という疑問が発端だった。こじれにこじれて最終的には「野球は良くて遊戯王はダメなんて差別では?」という被害者意識にすりかわっていた。 

自分にもそういう時期があったから、ツイ主が不当に差別されていると感じたこと、その痛みを引き摺っていることには同情しないでもない。それに、他人の趣味を露骨に軽蔑したり、不快感をあらわにしたりするのは良くないと思う。された側はこうして長いこと苦しむわけだから、子供だからと許していいものでもないのかもしれない。

それはさておき、オタク趣味が世間のものさしで評価されるようになったのを喜ぶのことには違和感を覚える。

原因は思うに

  • 差別された理由を未だに勘違いしている
  • 趣味に上下は無いという言説を勘違いしている
  • 学校のものさしを後生大事に抱えている

こういう点なのではないかと思う。

オタク趣味の差別に関する勘違い

ところで、オタク趣味は本当に差別されていのただろうか?もっと言うなら、オタク趣味は不当に差別されていたのだろうか?

少なくとも、私に関しては不当ではなかった。

野球が良くて遊戯王がダメなのは当時こそ差別に感じたが、今では全く思わない。

差別された原因は遊戯王ではなく私にあったことに気付いたからである。

高校、大学と進んでも、遊戯王をやっている友人は未だに居た。高校あたりこそ「遊戯王はキモいが俺はやめられない、でも俺はおかしくない、遊戯王を差別する世界が間違っているんだ」と屈折した感情を持っていたが、大学に入ってから段々と「俺、別に遊戯王やっててもいいんじゃないか?」と思えるようになった。遊戯王をやっている奴は想像以上にたくさん居るとわかった。遊戯王のおかげで友達はたくさんできたし、何より遊戯王をするのは楽しかった。遊戯王を悪く考えることは減っていった。

しかし引きずっている問題はある。

モテない

モテたいと思ったわけではない。が、恋人はできない。異性の友達……という程の仲ではないが、話せる異性なら居た。ゼミとか、授業のグループワークで一緒だった子とか……。しかし彼女はできない!

私に彼女が居ないにもかかわらず、中学高校でオタクだった友達や、今でもオタクの友達の中にはちゃんと彼女ができている奴もいる。おかしいぞ!なんでアイツだけ!

とはならない。不思議でもなんでもなくて、異性に興味があるのに何のアプローチもかけていないのだから当然である。

それならと一念発起して、当時の友達や高校時代関わりのあった相手など、話せる女の子を食事に誘ってみた。驚いたことに食事には行けた。なんなら何回か行ける。何回か、食事には。その先は無い。スマートに誘い、スムーズに切れる。それが何人か続く。

ここに至って「どうして……」などと不可思議を覚えるようなことは全くなかった。

何を隠そう、自分の話すことが死ぬほどつまらないことは自分でも分かったからだ!

何かがおかしい。男友達からは概ね面白いヤツと思われていた自覚がある。所属するコミュニティではいつもムードメーカーだった。飲み会でもよく盛り上げていた。手応えがあった。

じゃあ何でうまくいかないのか?

答えはおそらく単純で、一般的女性と話せるネタが殆ど無かったからだ。

大学でしていたのはなけなしの勉強と連日の遊戯王。家では文学鑑賞と深夜アニメ消化。それから筋トレと銭湯めぐり、美術館めぐり、飲酒。

インドア中心だが、やりようによっては面白く話すこともできただろう。しかし私は話を面白くするための訓練や勉強など一切していない。積極的に女の子と話し、経験を積んできたわけでも無い。これでは話が面白くなるわけもない。独り合点かもしれないが、そう納得した。

一般的な女子大生ではなく、文学少女や女性デュエリストが相手なら盛り上がれたかもしれないが、そういった層と交流する努力をしていたわけでもなかったから、こうなるのは徹頭徹尾当然でしかない。

遊戯王(=オタク趣味)は悪いもんじゃないと自分の中で評価が好転してきたところで、自分はオタク趣味がバレなくとも女の子と楽しく話せない人間だという事実を叩きつけられて至る一つの結論。

「オタク趣味じゃなくて俺が悪かったのでは?」

思い返してみれば、女の子には遊戯王の話をしないという配慮は、大学に入るころにはいつの間にか身についていた。同じだけの配慮を中学校でもできていれば、肩身が狭くなるようなことも無かったんじゃないだろうか?

いや我慢しなきゃならないのが差別だろ!では何だ、女の子に遊戯王の話をできない世界はおかしいのか?

そんなことはないだろう。多分女の子になんでも話せる世界の方がおかしい。なんなら異性に限らず、オタク趣味の話に限らず、話していて相手が興味を示していないなら話題を変えるべきだ。当然である。

自分の関心のある全てについて話せる、気心知れた相手も居る。しかしそれは、自分自身に興味を持ってくれるくらい仲良くなれた稀有な例だ。

そういう相手が居るのはとても嬉しい。でも、この世の全ての人間とそういう関係になりたいわけじゃない。この世の全ての人間と遊戯王の話がしたい訳でもない。

私が人気者になれなかったのは、話題を選ぶ柔軟さが無かったからだ。野球部員でも、誰かれ構わず野球の話しかしないならただのウザい野球野郎だろう。

 

この気付きを得て彼女ができたか、といえば残念ながらそんなことはない。オタクしぐさが完全に消えた訳でも無い。今でも油断したらトリビアを開陳するし、気を抜くと話し続けてしまう。以前ほどではなくなったと思いたいが。

自虐ネタ・自分語りが多くなったが許して欲しい。こんなところでくらい、おじさんに自分語りさせてくれてもいいじゃないか。こんな話滅多に聞いてもらえないし。

 

趣味に上下は無いのか

さて、オタク趣味の市民権の話をするときは、

「(趣味は平等であるべきだが、実際には)オタク趣味は差別されている」

という文脈のことが殆どだと思っている。

例として

「小説は知的でラノベはキモいなんておかしい!芸術に上下なんて無いだろ!差別だ!」

いきり立ったオタクがこんなツイートをしたとする。これについて少し考えてみよう。(例がおかしかったらご指摘頂きたい)

小説は知的でラノベはキモいのか

「小説は知的でラノベはキモい」と口に出している人がいるとしたら、きっと小説をあまり読んでいない人だ。

まず小説は知的とは限らない。

私は田山花袋の「蒲団」が結構好きだ。

これは既婚者の中年小説家の先生が、下宿してきた19歳文筆家志望の女学生に対する劣情と世間体の間でムラムライライラする話だ。先生はだいぶチキンなかなか人格者で、2人きりでいい感じになっても踏みとどまるなど雑魚立派だ。しかし女学生は、勉強のためというタテマエで先生が恋愛禁止を言いつけていたにもかかわらず、いつのまにやら男子学生と恋愛をしていたことが判明。詰問してみたら旅行先でしっぽりやって処女喪失していたことがわかり、先生は逆ギレして下宿から追い出す。彼女が居なくなってから、「あの時ヤっとけば……」とさめざめ泣きながら貸していた布団をクンカクンカするーーという、ありえないほど情けない話だ。私は共感せずにはいられない。

こんなものは氷山の一角で、古典的名作であっても、見ようによっては悪趣味な・キモいものが結構ある。小説が知的と言う人は表紙を見たイメージで言っているだけで、実はそんなに小説を読んでいないのではなかろうか。ラノベを「キモい」と言うのも、表紙がアニメっぽいからそう言っているのだと考えれば説明がつく。

物書きのくせに小説が上でラノベが下と言う人もいるが、それは単なる好き嫌いの表明としか思えない。小説とラノベの上下を説明する正当なロジックがあるならぜひご教授願いたい。趣味に上下の別を作ろうとする手合いは感覚でジャッジして後からそれっぽく理論武装しているだけのことが多い。

とはいえそれが偏見であるのは事実だ。徒党を組んでクソリプを送って謝罪させれば溜飲が下がるかもしれない。しかしそれは、「暴力を数の論理で正当化する」ことに他ならないので、オタクに暗い記憶を抱えさせるいじめや差別と大して変わらない。

何より、ラノベの良さが理解できない人、ラノベを誤解している人が居たところで、自分がそれを好きだという気持ちに何の影響も無いのではないだろうか?

私は「蒲団」を好きになれない人も居ると思う。蛇蝎の如く嫌う人や、好きな奴は変態に違いないと決めてかかる人すら居るかもしれない。

なのでわざわざ自分から紹介したりはしないが、それでも結構好きだという事実は変わらない。それで十分だし、わざわざ矯正して回る必要は無いのではないだろうか。「蒲団」で盛り上がれる世界なんて永遠に来なくていい。でも19歳女学生に「『蒲団』いいですよね!」と話しかけられたらコロッと……いかない。だいぶ怖い。

ところで、私は「キモい」という言葉を軽率に使う人が嫌いだ。キモいと言う人は、自分の感覚や固定観念が多数者側と同一であると信じきっている、常識を疑う習慣の無い人だと思っている。頭が固いと自己紹介してくれている訳だから、こちらが頭の固い人向けにレベルを合わせて話してあげれば揉めずに済むし、最初から関わるのを避けることだってできる。語彙力が無いだけで案外良い人かもしれない。そもそも語彙力も所詮は知性の一側面にすぎず(以下略)

芸術に上下なんて無いのか

無い。まず何をもって上等として何をもって下等とするのかが分からない。この手の主張に筋が通っていることは滅多にないので、上下をつけようとする人に耳を貸す必要がない。反論する必要もない。

そして、私が(おそらく「犀」の筆者も)違和感を覚えるのは、躍起になって反論するオタクに対してなのである。

繰り返すが、他人がなんと言おうと、自分の好きという気持ちに何ら影響は無い筈だ。

なのになぜ、自ら大事な趣味にものさしを当てようとするのだろう?

しかもその目盛りは、市場規模がいくらとか、テレビに出たとか、何部売れたとかいう、誰にでもわかる下らないものばかりだ。

たしかに学校では多数派じゃなきゃ肩身が狭かった。しかし、枠から自由になったのに、どうして未だに多数者を見返すチャンスを伺っているのだろうか?

暗い「思い出」と言える歳になってもまだ、「あいつらにからかわれるかもしれない」という不安に怯えながら生きているのだろうか?

20代になってもまだ、学校でオタク趣味の話ができなかったことに未練があるのだろうか?

市民権だのなんだのと言って、他者の、多数の承認を求めてしまうのは、まだ「多数者に認められない趣味は下」というものさしで趣味の価値を測っているからではないのか?

芸術に上下を作っているのは、多数者による承認を求めているその人自身だ。

心のどこかでオタク趣味を一般の趣味より下に格付けながら、それを己のアイデンティティと結びつけて執着し、たまたま日の目を見たら「報われた」などと感じるのか。全く意味がわからない。彼らの執着は、オタク趣味が日の目を見ることにいかに寄与したというのか。

承認されるのが価値だと思っている人の行為としては、Twitterでオタク論を語りながらゲームをするという週末の過ごし方はまるっきりおかしい。承認を求めるなら、ゴルフセットを買い、上司とゴルフに行く方がまだ一貫性があるだろう。

あの日の自分は自分で救え

要は「『オタクを見直してくれ』と世間に求めるのはやめて、自分軸で生きようよ」という話だ。

とはいえ、今現在学校に通っていて、オタク趣味がバレて肩身の狭い人は鬱屈としているだろう。開き直るのは難しいと思う。辛いと思う。気持ちはわかる。

私だって長いこと恨みを抱えていた。否、過去形にすべきではないのかもしれない。自分の「好き」を否定された(と思いながら過ごしていた)経験が、今まで続く主体性に欠ける生き方の原因になっているのではないか、とさえ思わないでもないからだ。

もちろん今だって完璧に自分軸で生きられている訳ではない。

大学を出てしまった今、女友達はもはや全く居ない。

オタクの友達もどんどん結婚し始めた。裏切り者め。これは耳寄り情報だが、マッチングアプリを使ったオタクはほぼ全員オタク女と出会えている。人生捨てたもんじゃ無いかもしれないぞ!

が、今は他者に自分の価値観を明け渡すほど空虚でもないので、特に焦ることでもないと思えている。

自分軸に生きる、自分の「好き」を大切にするというのはあくまで私の理想だ。創作の手は止まっている。ようやく書いたブログだって、他人の制作したコンテンツや遠い出来事に関する視線の捌き方を見せているだけで、主体性の無さはそのままじゃないかと自己嫌悪する時だってある。

でも書いていて楽しかった。これは言うまでもなく個人的なことだが、しかしそれゆえに揺るぎないことだ。これこそがずっと求めてきた主体的な体験だと思う。それに、読まれるかわからない記事をノリノリで書いている自分は自分基準では結構カッコ良い。

何がカッコ良いか分からないと思うので「月と六ペンス」を是非読んで欲しい。「好き」など無い虚無オタクにとっては人生の転機になるかもしれない。読んで以来、私は「狂気=理解を求めない内発的動機」を持つ人に憧れている。風見幽香ばかり10年間描き続けている絵師時津風アーボック石油王が、かなり月に近い存在だと思っている。

脱線に脱線を重ねた。

とにかく、「自分の好きなものを多数者に認めてもらおう」と考えているうちは、趣味を否定されたオタク少年は成仏できない。

芸術が大勢に認められて嬉しいと感じるなら、まだ自分の「好き」は蔑ろにされたままだ。

ものさしを捨てて、自分の中の傷付いたオタク少年に優しくしてあげてはどうだろうか。

「理由なんていらない。みんなが認めてくれなくてもいい。誰がなんと言おうと、君は君の好きな物を好きで居ていいんだ」と。

 

 

世の中には、インナーオタク少年を手ずから殺すことで現実に適応し、現実のオタクを虐めることで自分がオタクでないと証明し続けなくてはならなくなったゾンビ大人もいる。「まだ○○やってんの?キモ」とわざわざ言う人なんかがそうだ。彼らは納得いかないまま親や世間に○○卒業を強いられ、不満をくすぶらせながらも、納得いかない規範を無批判に内在化させるしか無かった人々だ。こうなると「世間の目が怖い」「好きなものを好きでいられる奴が妬ましい」以外に行動原理が無い。

なけなしでも自分の「好き」が残っているなら、そうなるよりは幸せではないだろうか。