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読ませられる記事を目指します。

百合学芸員(ユリキュレーター)の誘い①【冬虫カイコ先生】

 

タイトルの通り。

いや意味わからんが。

論旨は「百合オタクの友人に勧められた冬虫カイコ先生から百合(関係性)のオタクに引きずり込まれそうだ」ということ。

経緯

きっかけ

関係性のオタクである友人と話している最中です。

たまたま関係性観の話になったときのこと。

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100%オタクな文面は気にしないでください。

なるほど。百合は全然興味が無かったけど……、そんなにイチオシなら……。

それにしても友人はあの錯綜した文章からよくレコメンドできたと思う。一晩経ってから読んだら私自身あまり意味が理解できない。

で、読んでみる。

comic-meteor.jp

二人とも目が死んでるけど、私はヴィジュアルより話が気になる人なのでスルー。

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自意識……。

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自意識……!

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自意識!!

おっ?

この、「自分ら以外の人間もそいつらのやってることもしょーもない、自分らのしていることだけが崇高なのだ」という感覚、理解者と二人の世界に耽溺する感覚。

私は身に覚えがありすぎて、一発で心惹かれてしまった。

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友人を百合学芸員に認定

しかし、もはや青少年でなくなってしまった人なら誰もが理解している通り、「自分ら以外がしょーもない」ということはなく、「自分と誰かが同じ世界を見ている」ということもないのである。誰もがいつしかそれに気付く。

おそらく、経験を積むことで現実の自分の大きさを知ってしまうから、自分の自我は他者とも世界とも隔たれていることを理解してしまうからであろう。

作中の二人も、同じように二人を隔てる悲しい壁を理解してしまう。

ある出来事を通じ、二人は同じ世界を見ていたわけではないこと、そもそも世界を相手取って何もできやしないことを知ってしまう。

それはとても寂しいことである。読んでいて気持ちがいい訳ではない。

しかしやはり、人は皆世界と一体だった「気がした」頃、全てを理解できていた「気がした」頃の心地よさが懐かしいのではないか。そして少なからぬ人が、いつかははっきり覚えていなくとも、その心地よさと決別する痛みを覚えているのではないだろうか。心地よい世界が幻想に過ぎないと気付いてなお、幻想を見ていた頃に郷愁を感じ、あの頃の感覚を心のどこかで求めてしまうのではないか。

少なくとも私は、それを自覚させられてしまった。

この作品で描かれる関係は決して美しいだけのものではないが、とにかく強烈な、抗い難い少年期への郷愁を覚えてしまった。

とても辛いのに、この痛みに惹かれてしまう。

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テンションが上がって意味不明の文章を送る私

もう筆者は冬虫カイコ先生の描く世界に興味津々だ。

その先へ

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完全に百合学芸員

肉屋の娘(再録)www.pixiv.net

そこでオススメされたのがこちら。

主人公の女子高生、肉屋の娘の月星は、どうしても父の弁当の肉が食べられずに捨ててしまう。

ただそれだけだが、彼女の嫌悪感と抵抗がアンニュイな筆致でこれでもかと描かれる。

不安で不快なだけで、読んだときは全く理解できなかった。

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百合学芸員の解説

理解できないなりにこじつけて、わかったふりをして感想を送ったところ、百合学芸員がアシストしてくれた。

この先でさらに単行本を数冊読んで分かったが、カイコ先生は生きていくにしたがって摩耗していく(一般的には「克服していく」と言われる)中高生のありのままの感性を描くスタイルである。それがどんなに独り善がりで身勝手なものであっても。

何作かある「生臭いものへの嫌悪感」を描いた作品もまた、「この世界から嫌な物はきっと排除できる」「嫌な物の無い世界まで逃げ切れる」と思っていた「あの頃」の心地よさ、思い込みに気付かされた時の喪失感を呼び起こすものなのだろう。

どハマり

もう、他も読みたい読むしかない。

カイコ先生の作品を探し、Kindleで単行本まで買ってしまった。

 

www.sukima.me

まずは「少女の繭」。

第1話「ブス」では、自分の見ていた世界が幻想だったと気付いてしまう少女。

第2話「代用品」では、自分に向けられていた好意(と信じようとしていたもの)は、実は幻想に向けられたものだったと気付いてしまう少女。

第3話「愛」では、二人の間に見ていた真実の愛が幻想でしかなかったと気付いてしまう少女(これは「美術部のふたり」的だ。)。

いずれも、少女たちの見ていた幻想、すなわち幼心地の、自分と世界の境界線の引けていない、万能だった頃の世界の喪失が描かれている。

www.amazon.co.jp

次に、「君のくれるまずい飴」。

ここでも、近しい人は思い通りになる存在のはずだという思い込みや、どうにもならない環境にも抵抗しきれると思い上がる万能感の喪失、つまり自他未分の世界との別れが徹底して描かれる。

のみならず、成長とも呼ばれている変化、すなわち避けようもなく純粋さが失われてしまうことへの絶望、嫌悪も執拗なまでに描かれる。

誰もが大人になるにつれていずれ折り合いを付ける(ピュアな自分は「折れ」てしまうのだ!)生臭いもの、不浄なものへの嫌悪も。

潮汐力」という、おそらく月のものが来ることを描いたエピソードもある。自分からも生臭いものが出てきたときのショックは想像できっこないが、その不安感がなんとなく伝わってきた。あるいは、先生はこういう体験を経て折り合いを付けたのかもしれない(私は先生の性別すら知らないが)。

 

物語についての話に徹してしまったが、絵も素晴らしい。繊細なタッチで、少女たちの内面をしっかり絵からも伝えてくる。演出も傑出している。

例えば、「少女の繭」の「愛」では、二人の世界があった頃はアヤメ(ハナショウブカキツバタかもしれない)の鉢植えが映り込むが、二人だけの世界が幻想だったとわかってしまうラストシーンには野生のアヤメが描かれる。

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もはや自発的にカイコ先生を摂取していく私

ここで浅ましくも「百合」というジャンルを「若かりし頃は誰もが持っていた、他者と外部とのゼロに近い距離感への郷愁を起こさせるものなのでは……?」と邪推した私は、勢いこんなことを書いてしまう。

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百合入門一日目の暴走

百合学芸員は一旦受け止めつつ、私を優しく諫めてくれるのだった。

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名文


「百合という言葉が内包するものはあくまで『女性同士の関係性』というだけの概念でしかないので、君だけの最強の百合を見つけよう」

 

入口だけ見て(入口がカイコ先生なのは珍しいらしいが)わかった気になってはいけない。

私だけの百合、求めていかなくては。

私の百合は、これからだ!

ここから買うと私は次の本を買ってまたブログを書きます。

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つまり「君のくれるまずい飴」の決済により還元されたポイントで「少女の繭」が買える。

al.dmm.com

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【ヘンリー・ダーガー】「非現実」はいずこに?

ヘンリー・ダーガーを知っているだろうか。

 

近頃はアウトサイダーアートの巨匠としてよく引き合いに出されるので、名前くらいは聞いたことがあるだろう。

あるいは、Wikipediaなら読んだという人も多いのではないだろうか。

ja.wikipedia.org

男の肖像

彼はシカゴの下宿の3階に住み、病院で掃除夫や皿洗い、包帯巻きといった低賃金の単純労働に従事しつつ、60年間ひたすら創作に没頭したという。

我々にはダーガー本人の用いた略称「非現実の王国で」として知られる彼の代表作、「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコーアンジェリニアン戦争の嵐の物語」は、1万5千ページを超える大長編だ。世界一長い小説と言われることもある。

彼の外界との接点は、勤務先の病院、下宿の大家夫妻、そして文通相手の親友だけだったと言われている。

25歳で徴兵された時の記録では、「身長5フィート1インチ(約155センチ)、瞳は青、肌は浅黒く、毛髪は茶色」。

口数は少なく、身なりはいつもぼろぼろ。シャツとズボンはよれよれで、その上に羽織る軍用コートはくるぶしまでの長さがあり、これもやはりつぎはぎだらけ。メガネのレンズは割れ、絆創膏で補修してあったという。

 

彼は1892年4月12日、米国シカゴ生まれ。

母は妹の出産時に死亡。生まれた妹はすぐに養子に出された。

教育熱心な父のおかげか、彼は読み書きが堪能で、小学校に入学してすぐ3年生に飛び級した。

しかしその父もしばらくして体調を悪くし、貧しい老人のための施設に入所。ヘンリーはカトリックの少年施設に入所した。

彼は、学校では問題の多い生徒だった。彼は南北戦争史に興味を持っており、犠牲者数について教師によく論争をふっかけたようだ。他にも、友人が嫌がるにもかかわらず奇妙な行動で笑いを取ろうとするなど、おかしな行動を繰り返しており、「クレイジー」とあだ名されていたらしい。

度重なる問題行動や、感情障害の徴候により、彼は医師の診察を受け、結果、障碍者養護施設に送られる。

施設の入所者の多くには重度の精神遅滞があった。自分は賢いと思っていたであろう彼にはさぞかし屈辱だったように思われるが、実際のところ彼はここでの作業や生活を嫌っていなかったようだ。対人関係を強いられるこれまでの学校生活よりはよほど良かったのだろう。

もっとも、施設には入所者の不審死、遺族の許可を得ない遺体の解剖など、数多のスキャンダルがあったようで、これらの記憶が後に彼に「子供は守られねばならない」との信念を根付かせるきっかけとなったらしいが……。

1908年、ヘンリーに父の死の報せが届く。迎えにきてくれる者が居なくなっことに絶望した彼は三度施設からの脱走を試み、三度目でついに脱出に成功。100キロもの道を歩き、シカゴに帰った。

それから、彼は病院で職を得るが、「施設にいた狂人」という偏見に晒され続ける。

私が精神薄弱児の施設にいたことを知り、シスター・ローズは私をクレイジーだと思っている。シスター・ニナから聞いたのだろう。こうなるとは知らずに名付け親がしゃべったのだ。すぐに病院中の人が知ることになる。そして私はクレイジーと呼ばれる。奴らの頭を全部合わせたよりも、私の頭脳のほうが優れているというのに。奴らは、誰ひとり、地理も歴史も知りやしない。 (前掲書[=『我が人生の歴史』]8~10ページ)

[小出 2013.p.7、[]内引用者]

このような苦境で、彼は非現実の世界を構築し続けた。

アーティストの「発見」

晩年、下宿の階段の昇り降りができなくなったダーガーは、長年住んだ下宿を引き払う。

その際、下宿の大家、ネイサン・ラーナーに部屋に残されたものをどうするか問われたダーガーは「好きにしてくれ」と答える。

彼の部屋を片付けるべく、扉を開いたラーナーが見たのは、床も埋め尽くさんばかりの大量の印刷物やがらくたの山だった。それらはベッドにまでうずたかく積み上げられ、そこで眠った痕跡は見られなかった。

それらをようやく片付けたラーナーは、部屋の片隅に旅行鞄を見つける。そこには、無数の文章とその挿絵が詰め込まれていた。

これが、「非現実の王国で」だった。7冊は製本され、残りの8冊は紐で束ねられていた。ほかにも未製本の原稿があったほか、無数の挿絵が添えられ、その中には2メートル近い巨大なものもあった。

挿絵は雑誌の切り抜きのコラージュであったり、あるいは挿絵をカーボン紙で写し取ったのをもとに描き替えたものであったり、雑誌の写真を引き伸ばしたのをもとに描いたものであったりと、絵が書けない彼がさまざまに工夫して作った痕跡があった。

ダーガーがみすぼらしい身なりで路地裏でごみを漁っていた理由を、ここにきてようやくラーナーの知るところとなったのである。

とはいえ、大家にセンスがなければ作品とてごみと一緒に捨ててしまっただろう。

しかし、ラーナーには工業デザイナーとしてのキャリアがあった。ホットドッグにマスタードとケチャップをかける容器や「ハニーベア」も彼のデザインだ。

ダーガーの作品に非凡な芸術的価値があることに気付いた彼は、以降、彼の部屋と作品の保存に尽力することとなった。

非現実の王国で

非現実の王国で」は、現在は美術館に収蔵され、研究者にしか読むことは叶わない。とはいえ、そのあまりの長大さ、結末が2つあるなどの放埓さ(自由さ)から、研究者ですら通読した者は居ないといわれる。

ただでさえ一部しか把握できず、しかも私は日本語訳された文章しか読めないが、よく取り上げられる要素はだいたいこんなものだ。

  • 主人公は7人のプリンセス「ヴィヴィアン・ガールズ」
  • 主人公の属するキリスト教国と、子供奴隷制度を敷く非キリスト教国「グランデリニア」の戦争
  • ヴィヴィアン・ガールズはスパイとしてグランデリニアに潜入し、幾度となく絶体絶命のピンチに遭遇するが、毎回奇跡的に生還する
  • なぜか少女の股間にも陰茎がついている
  • 少女を守り慈しみ、グランデリニア人に攻撃する習性をもつ生物「ブレンギグロメニアン・サーペント」、通称ブレンゲンが存在する。姿かたちはドラゴンのようなものから少女にツノと蝶の羽をつけたようなものまでさまざま。
    喉の奥に、ヴィヴィアン・ガールズを蘇生させる液体を放出する器官をもつ。
  • 現実においてダーガーが失踪した少女「エルシー・バルーベック」の写真を紛失したことが、作中ではグランデリニアで子供奴隷の反乱軍のリーダー「アニー・アーロンバーグ」の写真が失われる「アーロンバーグ・ミステリー」として、戦争の趨勢を左右する一大事として扱われる。写真はついに見つからない。
  • 挿絵には牧歌的なシーンと暴力的・猟奇的なシーンが混在する。また、牧歌的なシーン中に不穏な事物が見え隠れすることもある(花畑の中に少女の首を絞める石像があるなど)
  • 著者の分身と思われる人物が複数登場する。時にはヴィヴィアン・ガールズを導く味方として、時には敵方として。

こういった要素は散々に分析されている。

まず、宗教についてはダーガー本人の敬虔さからきているとみて間違いない。少女がときに凄惨な責め苦を受けることは、祈れども祈れどもエルシーの写真が見つからないことに対する神への不信の現れと見ることが多いようだ。

性器については、ダーガーが女性器を知らなかったという説は今やほぼ完全に否定されている。処刑・拷問シーンからは正確な解剖学的知識を持っていると見える彼が、そんなことを知らないはずが無いからだ。

アメリカの論者は、ダーガーが本質的にはゲイだからだと、作中でグランデリニアンが行う拷問はストレートな大人によるゲイへの抑圧・虐殺的振る舞いの表現なのだと言う。

日本の論者によっては、抑圧された生を肯定したいという願いのシンボルなのだと、また、社会の底辺で生きてきたダーガーは「女性は弱者である」との社会通念の欺瞞を見抜いていたのだろう、とも言う。

自分と同じ名前の将軍を登場させるのは、男性的魅力への羨望からと考えられる。明らかに、男性性を理解していたであろうダーガー。しかし本人には身体的不具があり女性からは相手にされていなかったのであろう。女性は男性(男性的魅力に欠ける自分)を値踏みし蔑む強者なのだと理解していたというのは、ありそうな話である。

いずれにせよ、ダーガーは性的無知によってではなく、己を投影するためにペニスをつけたと分析されているようだ。

(残酷な描写について、私は彼がペドフィルなのではないかと先入観を持ち、彼自身の強靭なカトリック的倫理観・禁欲との狭間で、性的描写を省きつつカタルシスを得ようとしたのではないかと邪推したこともある。しかし、彼の描く少女にませたところは一切無く、ひたすらに無垢である。彼に小児性愛があったというのは疑わしい。)

現代にヘンリー・ダーガーは存在しえるか

私は、ヘンリー・ダーガーを孤高のヒーローだと思っていた。

誰に見せるでもない作品を、何年も、何年も、ひたすら描き続ける。

評価も収益も求めず、創作以外の全てを擲って生きる。

狂気の向こう側、常人にはたどり着けない境地に至ったのだと。

 

しかし、彼の生涯とその作品について調べれば調べるほど、彼は孤高の存在ではなかったように思われる。

彼の孤独は、望んで手に入れたものではない。

彼は物語で子供たちを守るにとどまらず、現実で(無謀にも)女の子と養子縁組しようと考え、教会に申請したことがあるようだ。

当然、彼の収入が少ないことを理由に許可されることはなく、彼はまたしても絶望する(このことに関する不満も、作中でのキリスト教徒軍の受難に繋がっているらしい)。

一九一六年八月十一日
子供たちをネグレクトの危険から救い、養子にもらうために必要な資産を得る方法を、神が私に与えてくださるなら、キリスト教徒軍は救われるだろう。残されたただひとつの可能性だ。いかなる場合も他にチャンスはない。状況は深刻で、原稿の進捗は滞っている。
(日記より)[前掲書73ページ]

彼は、まともな、むしろ優秀な頭脳を持っていると自認していた。

にもかかわらず、やることなすこと全てが挫かれる。

非現実の王国がそんな現実からの逃避の果てにあるとすれば、それは目を背けたくなる現実の悲惨さにこそ立脚している筈だ。

子供は守られねばならぬとの信念、そしてヴィヴィアン・ガールズを脅かす男たちは少年時代に受けたいじめに。

少女たちへの執着は、顔も覚えていない母と妹の喪失に。

あるいは、都会に戻ってきた彼に差別を向ける大人の女たちへの絶望に。

少女たちにペニスがあるのも、「女性は無垢ではない」との観念があったからではなかろうか。

 

現実の男は自分をいじめる。現実の女は自分を差別する。だから、無垢な少女の姿に「道徳的に正しい」自分のシンボルをつけて、完璧な善性の体現としたのではないか。

そんな風に考えると、先のシスターの件の引用も併せて、彼はただ、己を虐げ、うらぶれた境遇に追い込んだ社会に復讐戦を挑んでいただけにも思える。

こんな視点から見ると、「非現実の王国で」はルサンチマンを解消するだけの三文小説と何ら変わらない。

だがしかし、現実逃避や憂さ晴らしのための物語が巷にあふれかえっているにもかかわらず、彼の作品や生きざまはそれらと同じには扱われず、別格の憧憬を向けられているように思える。

なぜか?

 

おそらく彼にとって、作品自体が目的だからだろう。

彼は、創作者である生き方を一心不乱に貫いた。

 

表現者には、「あわよくばこれでメシが食いたい」「書籍化して儲けたい」「もっと多くの人に読まれたい」などといった願望や妄念がまとわりつく(表現者一般がそうかは知らないが、私にはある)。

そして、創作を目的とした生き方は我々にはとても難しい。

まず世間体がある。社会と接点があれば、「休日なにしてた?」と聞かれてしまう。そこで「ひたすらペニス付き少女を描いてました」と答えられる現代人はいないだろう。

この例は極端だが、社会と関わっている限り、人はどうしても外面を気にしてしまう筈だ。

それに私達の多くは、彼のように自閉に徹する勇気はない。仮に彼のように全てを失ったとしても、外部に救いを求めてしまうだろう。

今では、スマホ一つでだれとでも繋がり、孤独を慰め合うことができる。例えばTwitterで同類とつるめば、共感を得るのはたやすい。

誰もがつながる現代では、活動的でない・自閉的な人間も、同類のコミュニティで承認を求めることができるのだ。

誰もが逃亡先を探せる。そこに安住したいと思ってしまえば、そこでの居場所を守ろうとする。どこかで自分に嘘をつき、そのコミュニティに媚び、計らいを持って言葉を紡ぎ、絵を描いてしまうのではないだろうか。

さらに、今は「多様性の時代」である。社会に適応しない人間も、居場所を見繕って押し込まれる。彼のように現実に絶望することも、空想以外の逃げ場を失うこともない筈だ。そればかりに、なけなしの居場所を守ることにあくせくする羽目になり、自分だけの王国作りはできなくなるのだろう。

 

コミュニケーションは容易になり、マイノリティにはマイノリティの居場所が用意される時代。

だからこそ、もはや第二のヘンリー・ダーガーは現れえないと筆者は思う。

社会の切り離しや本物の孤独が絶滅したからこそ、生権力や他人のまなざしに縛られているからこそ、わたしたちは彼の孤独と狂気に憧れてしまうのではないだろうか。

 

今や街の隅々に明かりが灯り、孤独も団欒もくまなく照らしている。

明かりが無かった頃の月の眩しさに、私は思いを馳せる。

 

参考文献

 

 

美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

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  • 発売日: 2007/04/17
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