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オタクと一口に言うけれど(7/26を別の切り口で)

私はマイナーな趣味の愛好家をとりあえずオタクと呼ぶし、漫画アニメゲームで繋がった友人はだいたいオタク扱いする。

そんなふうにある種の同朋意識があるわけだが、オタクは般ピー(非オタ)とどう違うのか。

私はずっと、空気が読めない、だらしない、物にこだわりがある、ゆえに子供っぽく見られる……などがオタクの共通点だと思っていた。しかし実際のところ、ミーハー・パリピ嗜好がある人にも各要素が部分的に見られる。オタクでも、やたら律儀なオタク、場を和ませるのがうまいオタク、ぱっと見オタクっぽくないオタクもいる。

結局のところ、オタクの共通点はマイナー趣味を愛好していることに尽きる。

ここまでは考察。この先は考察というよりは半生の反省かもしれない(激寒)

kadzuma.hatenablog.com

この記事を書いた時点では、全オタクが「好きだから」オタク趣味に拘っているものだと考えていた。その通りなら、好きでオタクをやってる筈なのに人の評価が気になるのはおかしい。

理屈の上ではそうなるが、前提の間違いに気付いた。

世の中には「真のオタク」でない、オリンピックで名誉回復した気になる「キョロオタク」も居るのだ。私が真のオタクに憧れているからこそのネーミングと扱いで、本来は上下など無いのかもしれない。

ところで私の話だが。

ブログのそこかしこでしている通り、私は自分を批判することがままある。批判しているのは内在化された「道徳観念」「世間の目」だ。般ピーと没交渉なオタクにも「自分が何をしたいか」以外のものに判断を委ねているこんなタイプの人は居るんじゃないだろうか。どこかから仕入れた正しさから外れないように気を付ける生き方には主体性がなく、リア充集団から浮かないように気を付けているキョロ充とたいして変わらない。

思想にかぶれたのは、主体に代わって価値判断を行う外付けのツールを求めていたからかもしれない。ゼミを聴講して、同好の士と古今の思想を吟味しながら真や善や美について議論するのは楽しかった。また、己の現状を理想と比較すること、ひいては自他を批判することにも承認を与える気風があった。

正しさの追求に承認が与えられている空間は心地よかったが、私は承認を得ること以外にはあまりにも無欲で、より善い人間になるために理性によって自我を組み敷くことに躍起になった。

自分のしたいことを一旦措き、先人の見出した理想に近づける試みは、内的な欲望の充足よりも、外的な承認を得ることが優先する行為で、土日にアニメを見るのを諦めてゴルフをするとか、虫捕りを引退してサッカー部の練習に行くのと似ている。内的な欲望の充足よりも、外的な承認を得ることが優先されていて、オタク的というよりむしろ般ピー的である。真のオタクに必要なのは、黄金の精神ではなく漆黒の意思である。

なんのために昔話をしたか忘れた。とにかく本題である。

「オタク」と十把一絡げにまとめられているが、オタクたちの中にも、内向に徹した「真のオタク」気質の人間と、オタクコミュニティでの承認を求めている外交的な「キョロオタク」が居るのではないか。そして両者共に「自分の『好き』を大事にしたい」というスタンスをとっているが、両者にとっての意味は全く違うのではないか。

真のオタクは誰がなんと言おうとオタク趣味を続けられるだろう。誰にも褒められないことをやれる人間なのだから、とやかく言われて怒ることはないだろう。市民権にも興味はない。

キョロオタクは、般ピーコミュニティへの適応を拒む言い訳として「真のオタク」の言説を借りているだけに思える。だから、適応した人間にならなくても承認が得られる世界、即ちオタクに市民権のある世界の到来を望んでいる。

彼らがオタクコンテンツを使ってやっていることはウェイウェイバーベキューとたいして変わらない。コミュニケーションの媒介が肉からアニメになっただけである。どうして般ピーコミュニティに適応しないのかはわからない。「般ピーに認められたいが、般ピーと仲良くなるのに失敗して傷つきたくない」みたいな、碇シンジみたいな精神状態なのかもしれない。

一時期、「オタクでなくなったオタクは、オタクじゃないがリア充でもない、陰キャじゃないが陽キャでもない『無キャ』になる」という話や、「疲れてアニメが観られない。オタクでなくなった自分を認めたくない」という話が盛んにRTされていた気がする。その焦燥や苦悩の原因は、自分は(真の)オタクであるという自認にあるのではないだろうか。

今では「手っ取り早くオタクになりたいので、何を観ればいいのか教えて欲しい」と聞くオタク志願者がいるらしい。確かに、真のオタクには周囲を気にしない確かな自分がありそうだから、何者かになりたい人間から見れば魅力的だ。しかし、真のオタクの核は「好き」という気持ち(私はそう思っている)なのだから、スピードラーニングでオタクになったところでキョロオタクになるだけだろう。キョロオタクから時間と話し相手を奪ってレベルアップすると無キャに進化する。

そんな進化はしたくない。そうだ。キョロオタクが承認を求める生き物なら、キョロオタクも創作をやって承認を得れば完璧なのでは?

実際にできれば素敵だ。しかし、承認欲求と無産オタク(である自分)への蔑み、あるいは真のオタクへの憧れしかないなら、創作を続けるのはきっと苦しい。俺はにちかに幸せになって欲しいよ。というか、創作をするだけの熱量のある人間は規模はどうあれ既にしている。

ではどうすればいいのか。俺はオタクだからと言い張って、「人の趣味に口を挟むな」という便利な言葉を盾にずっと社会に適応してこなかった人間が、自分が真のオタクではないことに気付いてしまったら。

al.dmm.com

処方箋は人それぞれだと思う。

たとえば私は実存を欠いたまま、実存への飢えを文章にしている。