選別済み

読ませられる記事を目指します。

ifの時代

フェミニズムや「弱者」についてまともに議論する知識も熱量も無いので、書籍にまつわる記事ではあるものの、議論の本題はスルー。

とても頷けたのはこの部分。

一方で、これだけ男女参画社会が叫ばれる今、夫の成功を後押ししながら自分を磨くかつての「(雑誌の)VERYな妻」になりたいかというとそうでもない。男性に選ばれて上昇婚を目指す女性たちのバイブルだった『JJ』(光文社)が月刊発行を終了するくらいです。

仕事だけでも家庭生活だけでも物足りない。尊敬もされたいし愛されもしたい。みんな当たり前にどちらも欲しがっています。高度に発展してしまった脳を満足させるためには、「恋愛」「結婚」「仕事」というような項目の記載のある幸福シートにチェックを入れていくだけだとダメなのだろうと。

自分が子育てに集中している時だったらバリバリ働いている人たちはキラキラして見えます。一方、働いている人は子どもの写真の入った年賀状を見て「自分は寂しいな」と思う。自分が自分の意思で選んだにもかかわらず、「選ばない選択肢もあった」という思いによって承認欲求の幅が広がっている気がします。

 

上野さんをはじめとする、女性に寄り添った社会批判や格差是正の恩恵に預かっている私たち世代の女性が以前と比べて自由に生きているのは確かですが、かつてあった問題が解決されても、すべての人たちが幸福になったわけではないという現実もあります。

また、「選択肢があるからこそ悩み苦しむ」ことはあると思います。なおかつそれは「選択肢がないから」というクレームを付けられない苦しみでもある。自分で選んでしまったがゆえの、自己責任という重苦しい問題がのしかかってくる。その悩みはそもそも選択肢がなかった上野さんの時代を考えれば、ある意味では「贅沢な時代の悩み」ではないでしょうか。

「誰もが好きな生き方を選べる」という建前ができた結果、これまで多数派を占めていた無難な生き方さえも相対的なものになった。

結果、「選ばなかった人生の方が良かったのでは?」「よりよい人生があったのでは?」と、選び取ったつもりの人生も常にifとの比較に晒され続けるようになった。

なるほど。女性じゃないがこれらは実感する。

YouTubeを見てみれば、会社員生活への不安を煽ったり、働かなくてもお金が入ってくるというifに夢を見させることで投資サイトに誘導する広告がいっぱいある。これも人生の絶対性が揺らいだ結果だろう。

無限の選択肢があるかのように言われる一方で、映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」のパンフレットで、片渕監督はこう述べている。

ーーすずさんの成長という側面についてですが、前作では自分の身に起こった色々な不遇を乗り越えていく成長物語のように見えていました。対して今回の映画では、色々なものを諦めていく過程に見えたのが印象的です。

片渕 そうだと思います。子供の頃は本当に無制限に、何にでもなれたはずなのに、「あなたにできることはこれしかないんだよ」ということを、繰り返し突きつけられて、いまの自分がいるわけですよね。なにも物語の中でまで、そんな現実を突きつけてほしくないという人もいるのかもしれない。だけど、そういうのが人生なんじゃないかということは、どこかでわかりながら生きたほうがいいだろうと思います。ここ何年か、映画祭などで世界のアニメーション作品を観る機会があったんですけど、かなり多くのものはアニメーション・ドキュメンタリーになっていて、現実の辛い出来事を直接描くものになってきているんですよ。そういう中で、日本のアニメーションは、辛い現実から目を背けるために夢を見たがるお客さんへの迎合が、あまりにも過ぎている。観る側にとって都合の良いものばかり提供しすぎちゃっている気がするんですよね。じゃあ、自分の人生のモデルが見出せずに五里霧中のように感じながら生きている人が多い中で、文学や映画は「都合の良いもの」ではない何を提供できるのか。それは、「こういう例もあるんだよ」「こういうことだって起こりうるんだよ」ということを語り残して並べてくれることだと思うんですよ。それが文芸的なものの役割だと思います。『さらにいくつもの』がドキュメンタリー的なものではなく文芸的なものじゃないかと言ったのは、そういう意味でもあります。

ーーすずさんが焼け野原の相生橋で「ありがとう、この世界の片隅にうちを見つけてくれて」と周作との関係を結びなおすシーンにしても、それは居場所の獲得という成熟である反面、一生「笑顔の容れ物」になっていくという断絶の受け入れにも見えました。

片渕 断絶というか、自ら世界の中に居場所を選び取るという立場があったとして、その依って立つ場所が、いかに危ういかということじゃないかなと。それは本当に"幽き"関係の上にギリギリ成り立つものであって、最初から最後まですずさんの危うい立場はずっと続いていく。その結末に至るシーンでも、すずさんが江波の実家に戻ってみたら、戦災孤児がいて住む場所がない。結局、すずさんは積極的に呉の婚家に住処を求めていたわけではなく、どこにも行くところがない存在だと暗示されていて、全然前向きな生き方はしていない。だからこそ、この物語は、ある程度年齢を重ねて、人生経験を経た人が観るものになっていると思うんですよね。もし、すずさんが周作から自立し、本当に江波に戻って生きるんだと気張ってその通りに実現したとしても、それはやはり子供のような自己実現でしかない。もっと違うんじゃないかなという気がします。決して自分自身で選びきれない、そこにしかない道を自覚することで、何か先行きとか未来とかが辛うじてその上に見えてくるのなら、それを以て良しとしなければいけないのではないか。そういう映画なのではないだろうかと。

ーー問もなく2020年を迎える現在、特に日本では、2016年と比べて「より世の中の状況が悪くなった」と感じている人が多くなっていると思います。そういう時代にこの映画を送り出すことで、人々にどんなメッセージを届けたいですか。

片渕 9年前にこの映画を最初に作ろうと思った頃は、東日本大震災もまだ起こっていませんでした。それから大きな災害が次々と起こり、国が経済的にもどんどんダメになっていった。いろんなことが起こり続けていますよね。だからこそ、より真剣なものを作らなければいけないという心構えは、こちらも持っているつもりです。現実の中では皆さん大なり小なり、すずさんと同様に、色々なままならない出来事に遭っているわけですよ。それに対して「きっとこれからは大丈夫」といった夢を見せて、一晩だけ誤魔化そうというつもりはありません。そうではなくて、もっとそれぞれの心の芯になるものを提供できたらという想いが、強くあるんです。

たどり着いたところに根を張り、己の在り方を肯定し続ける揺るぎない芯を持つ。これはifの時代に対する回答の一つではあると思う。

とはいえ私は、これだけの厚みと重みを伴った言葉さえも「〜の一つ」という相対的なものと受け取っている。これこそがifの時代の苦しみの源だと思うが、しかしそう考えてしまった。

人生ですべてを試すことができない以上、全部のifを消すことはできない。居場所を決めた筈なのに、いつ不意にifたちが「お前がそれを選択したんだ」「お前がそこに甘んじているんだ」と囁いてくるかわからない。それを跳ね返すだけの「芯」は身につけられるのだろうか?